博多中州観望

 

 

< 博多中州観望 >

アジアの玄関口として栄える国際都市・福岡。

歴史と新しさが息づく国際都市にふさわしい、

やすらぎと格別のゆとりのおもてなし。

とても上質な時間が流れるホテルオークラ福岡。

いつもながら暖かくゲストを迎えてくれました。

 

早速、部屋から恒例の定点観測です。

これも旅の思い出として記念の撮影記録。

街中の昼の顔、夕景、夜景と朝の顔。

今回は、博多中州は川端からの観望です。

 

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3.11の記憶

 

 

< 3月11日 >

東日本大震災の発生から6年。

奇しくもその日、その時間。

通されたホテルの部屋でニュース速報。

押し寄せる津波の光景に目を奪われた。

 

そして今日も同じホテルの部屋。

こんな事があるのだろうか。

テレビのリモコンを握る。

窓からの光景も時計もあの日と同じ。

6年前と同じ自分がここにいる。

不思議な時間だった。

 

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犠牲になられた人々への鎮魂の日。

ご冥福を祈るしか自分には出来ない。

あれから6年の時だけは流れた。

 

 

 

 

父と娘










出張で大阪に行ってきました。

今年初めてのJR新幹線。

いつもながら思うこと。

山陰新幹線の開通が望まれます。









毎年この時期、リーガロイヤルホテルにおいて





キッチンメーカーさんのお得意様新春懇談会。

出席させていただくのも、もう20年を数えます。

ロイヤルホールでは600名ほどの参加者。

いつもながら、見上げて思うこと。

天井がすごく豪華。島根には無い会場です。


社長から、経営方針の発表、新商品の発表など。

非常に分かり易く、充実した懇談会。

明日への活力をいただきました。







この後は懇親会。





お隣の「光琳の間」へ移動。

この光琳の間も大きなホールです。

立席パーティースタイルで2千名の収容。




大変華やいだ雰囲気の中で、

今年もたくさんの経営者の方と懇親を深めました。




それにしても、

いつの間にか、経営幹部から社長就任された方。

いつの間にか、社長を退任して会長になられた方。

業界も少しずつ世代交代が進んでいるようでした。




世代交代と言えば、

みなさまご存知、一連のお家騒動。










< 父と娘 >








久美子を社長に選んだのは失敗だった

とまでも発言した、ちょっとアデランス風の父(会長)。



パーフォーマンスは残念、社員を巻き込むな

とまでも反論した長女(社長)。




皆様が株主だったら、どちらを応援されるのでしょうか。

どちらにしても、最近珍しいお家騒動ですね。















 

東北応援視察旅行【9】

 毛越寺からバスに乗り、乗車から5分ほどで下車となりました。自転車で走るとちょうど良い距離でしょうか。

今回の東北旅行の終着地、中尊寺に到着しました。ずっとこの日を楽しみにしていました。普通ならこの表参道を登って本堂を目指すようですが、バスは特別に裏参道を登り、上の駐車場の方まで行ってから降ろしてもらいました。

ここは、金色堂、讃衡蔵にもっとも近い場所でした。こちらの専属のガイドさんに従い、まずは「讃衡蔵」を拝観しました。この蔵では「甦る平安の輝き」と題した企画展が開催中のようで、中尊寺を代表する国宝の数々を見ることが出来ました。



そして、今回もっとも楽しみにしていたところ、

これまた「国宝・金色堂」でした。正式には金色堂を外気に触れないように守る、覆い堂とも言うのかも知れません。
日曜日ともあって、中に入るのには大変な行列でした。もちろん撮影禁止です。
さすが金色堂です。お堂全体を金箔で覆い荘厳な彫金は素晴らしかったです。まさに、平安仏教美術の最高峰でしょうか。

説明によると、天治元年(1124年)の造営で、中尊寺では唯一の創建当時の建物のようです。
また、中央の須弥壇(しゅみだん)の内に藤原家、初代清衡(きよひら)、向かって左の壇に二代基衡(もとひら)、
右の壇に三代秀衡(ひでひら)公のご遺体がミイラとして納めれれていることに驚きでした。
(四代泰衡(やすひら)は首級が三代と一緒に納められているそうです)



金色堂のそばには、

こちらは、重文・経蔵(きょうぞう)。パンフによると、ここは中尊寺のお経を納めていたお堂とありました。
修復はされていますが、平安時代の古材が随所に用いられているようです。
「いろはもみじ」が真紅に色づく頃には、絶好の撮影ポイントになるようです。


意外なことに、ぼくは忘れていました。

この碑を見て、芭蕉先生のことを忘れていました。ぼくは学生の頃、この方に興味を持ったものです。





芭蕉も見た金色堂。当時は少し離れたところにあったようです。






そういえばあの頃、

芭蕉が巡ったそれぞれの場所を、地図で探しながら確認した記憶があります。




そうこうすると、

横顔が見えてきました。





この歳になって、

初めて憧れの「松尾芭蕉」にお会いできました。感動モノです。




そこで、団体行動の最中、はぐれない程度に間を空けて、

平成の「奥の細道」を探すことにしました。






芭蕉も登ったのでしょうか。






説明をお読み下さい。












どこもかも、撮影ポイント満載です。これから紅葉が進むと綺麗でしょうね。



しかし、

今日は日曜日、人影がない場所を探すのは一苦労でした。



そうこうしていたら、祭囃子が聞こえて来ました。

ご本堂の前庭で、何やら人だかりが出来ていました。





何の踊りか分かりません。男性だけの素朴な踊りです。




秋の収穫のこの時季、五穀豊穣のお礼の奉納なのかなあと思いました。あくまで、ぼくの想像ですが。



ここで、

天台宗東北大本山、中尊寺本堂の参拝となりました。パンフによると難しいことが書いてありますが、当時の建物は14世紀に消失してしまい、これはもちろん再建された立派なお堂でした。


本堂へお参りしてから表参道を降りようかとする辺りに、ぼくの仕事を思い出させるモノ。

大杉の三つ子ちゃんでした。太さといい伸び具合といい、かなりの年代ものでしょうか。




こちらは、

四つ子ちゃんに見えますが、双子ちゃん×2だと思います。
四つ子ちゃんなら、とても貴重なものです。



しばし見上げてから、

表参道「月見坂」を下りていくと、弁慶堂がある辺りに名所があります。





東物見台と呼ばれる撮影スポット、見晴展望台があります。




ぼくは、弁慶堂のチョッと高いところで望遠で見てみました。

奥州藤原氏の拠点。当時、京の都に次ぐ規模と人口だったこの平泉。栄華を偲んでみました。大きい川が「北上川」。見えるこのあたりは、衣川の戦い、高館(たかだち)辺りでしょうか?。
藤原氏を最後の頼みとして訪ね、義経は秀衡(ひでひら)にかくまわれました。心から穏やかな時間を過ごした場所でしょう。
そして、頼朝の脅迫に屈した藤原泰衡の裏切りにより、妻の静御前と共に自害した義経と、最後まで義経を守った、あの弁慶最期の地。

芭蕉の、「夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡」の句が、何となく聴こえてきそうでした。


そんな昔のロマンに浸りながら、足元が悪く滑りそうな月見坂を降りると、

中尊寺の門前に出ました。ここ平泉は一度は訪れたかった場所で、すごくよかったです。また、みちのく巡礼「四寺廻廊」の旅もあるようで、平泉のここ中尊寺、毛越寺、松島の瑞巌寺、山形の山寺立石寺の四寺だそうです。
今回、三寺は巡りました。機会があれば、立石寺にお参りしたいものです。当然、松尾芭蕉が巡拝した寺々です。


そんな次の目標を抱きながら、

これで、今回の東北応援視察旅行はすべて終わり、一路東北新幹線、JR一関駅にバスは向かいました。
車窓から見える田園風景を見ながら、ぼくは尊敬する「鎌田 實」先生が震災以降おっしゃっている言葉。
「99%は自分のため、家族のため、身の回りのために生きていくのはいいけれど、1%は東北の被災された方、
原発の事故で苦しんでいる方のことを忘れないで・・・」を思い出しました。ぼく達はこの旅で何が出来たのだろうか。

「東北応援視察旅行記」は、全9回となりましたが、偶然にも普段以上の沢山のアクセスをいただきありがとうございました。
特に、被災地の視察報告においては、不適切な表現や画像もあったと思います。不快に思われたみなさまにお詫びいたします。
明日からは、平常どおり何も意味が無い、いつもの社長ダイアリーに戻らせていただきます。

改めて、大震災で尊い命を失われた方々に心よりお悔やみ申し上げ、一日も早い被災地の復興をお祈りいたします

東北応援視察旅行【8】

 南三陸の宿で疲れを取った翌朝は、旅の最終日、一路岩手県に向かいます。

再び防災対策庁舎前を通ると、朝から慰霊に訪れる方がありました。ぼくも車窓から手を合わせました。
ここからバスは国道398号、本吉街道を北上し、岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」を目指します。


何処をどう走ったかは定かではありませんが、宿を出発してから走ること二時間あまりだったでしょうか、バスは国道4号線(奥州街道)、一関(いちのせき)に入りました。ぼくは始めての岩手県入りとなりました。


ひとまず到着したのは、

平泉町、毛越寺(もうつうじ)でした。こちらも昨年、世界文化遺産に登録されたようです。しかし、ぼくにはこの読み方が普通に読むと「もうえつじ」、「けごしじ」、「もうおつじ」だと思うのですが、なぜ、「越」が「つう」か不思議でした。



まあそれはそれとして、テレビなどでは「もうつうじ」の名前を聞いたことがあります。

さっそく、本堂にお参りしました。ご本尊は「薬師如来(平安時代作)」とあります。渋い朱色に塗られた、使ってある木材も立派でした。




本堂の横には、

当時、この場所は南大門のという立派な門が立っていたようで、ここがこの寺の正門だったようです。




このまえには、
廻りの山々を映し出す広大な池が広がっています。












とてもファインダーには収まりません。この池は、浄土を表すとても意味深い、古い作庭手法のようですが、ぼくにはもちろん分かりません。

そもそも、世界遺産に登録されたのは、この池、大泉ヶ池(おおいずみがいけ)を中心に取り囲む、平安時代に建造された金堂、講堂、堂舎の数々の遺構跡と、浄土を表す浄土庭園が評価されたようです。
そいいえば、この光景はテレビで見たことがあります。
当時の復元模型でもあれば分かりますが、勉強不足のぼくには、ただ広い池を一周しただけのウォーキングコースでした。



しかし、この方々には「雅」な平安時代が感じられるのでしょうか、

芸術の秋のようですね。良い時間を過ごしていらっしゃいます。




ぼくには絵心がありませんので、写心にて記憶に残したいと、





目にも優しい緑に囲まれ、てくてく撮影しながら歩きました。



その中でも、ぼくが「雅」を感じたのは、


萩の花でした。平安時代からここで咲き続けているのでしょうか。



それにしても、

この方々が気になります。



そこで、そっと近づいて、

どんな状況か見て見ることにしました。






こんな状況です。ぼくは、「お上手ですね〜」ってご挨拶しました。
ぼくに浮かんできた歌は、「あなたと〜わたし〜たのしくお絵かきしましょ〜大きな杉の木の下で〜」
でした。

何故か、世界遺産「毛越寺」の思い出は、お絵描きされる方々の光景でした。
このあと、この旅の最終地、中尊寺に向かいます。

東北応援視察旅行【7】

 女川を出発して、再び石巻市内を通り抜けおよそ一時間くらい走ったのでしょうか。
国道45号線、東浜街道にバスは入りました。山を幾たび越えて見えてきた光景は、

住宅の基礎部分だけが残った、閑散とした光景が続きました。山の木が、海水の塩分で立ち枯れを起こしているようです。





中腹には、線路が途中で遮断されています。気仙沼線の小さな駅舎があったと想像されます。しかし、海は見えません。こんな奥のほうまで津波が押し寄せたのでしょうか。信じられませんでした。






しばらく走ると、

平坦な場所に出ました。ここが、南三陸町志津川でした。







まもなく、道路わきにバスは停まり、降り立った光景は、

言葉にならない光景でした。ぼくは一礼し、写真に収めさせていただきました。


























鉄骨むき出しの建物は、今も震災の悲惨さを象徴する「防災対策庁舎」。役場の職員の方々が必死で住民の方々を最後まで守ろうとした場所です。




中でも、当時の報道で日本中の国民が泣いた、

当時、防災放送担当だった職員の「遠藤未希」さんが最後の最後まで、3階から避難を呼びかけた防災放送。
そのほかにも、屋上には住民を交え残された職員の方々30名ほど避難されたようですが、屋上も2メートルを越す津波が飲み込み、津波が引いたあとは10名ほどだったそうです。胸が締め付けられそうです。





この日も、多くの方が献花に訪れ、黙祷を捧げる姿がありました。
心が折れそうです。
ぼくのような、初めてこの地を踏むものにとって語る資格はありませんので、
遠藤さんの記事は、コチラ
でご確認ください





川の対岸の様子です。






高台は被害を免れたようです。






河口の方向です。






ガソリンスタンドも小さなプレハブで、頑張って営業されていました。頭が下がります。






写真を撮り終えて、やってはいけない行為に気が付きました。ぼくが立ち入ったのは、他人様の敷地内です。ここには、住人の方々の幸せな営みがあった場所です。ぼくのような、よそ者がやってはいけない行為をしてしまいました。
ちなみにこの場所は、玄関付近の床にAUショップらしきシール跡がありました。 申し訳ありません





よみがえれ 故郷  ふんばれ 南三陸! 復興を祈るばかりです。





震災以前の光景のようです。

気仙沼線の列車が走る、とてもきれいな港町だったようです。そこには、17,000人以上の方が住まわれ、幸せな営みがあっと思います。



3.11 あの日、あのとき ここで何が起こったのか、

記憶に残さなければと思い、画像を掲載させていただきました。


南三陸町志津川、死者611名、行方不明者237名(8/31現在)


大地震で尊い命を失われた方々に、衷心よりご冥福をお祈りいたします

東北応援視察旅行【6】

 石巻での視察を終え、重たい心で山間を進むこと30分。次の視察先、女川町にバスは入りました。
停車したところは、道路から16〜7メートルほど上った近代的な建物の駐車場でした。

ここは、女川地域医療センター、町立女川病院です。こちらも、1階の天井付近まで津波が襲ったと知り、ぼくは唖然としました。





それもそのはず、

下から見上げると、こんなに高い所に立っているのにと驚きです。
この女川町は大津波により壊滅的な被害を受け、陸路が遮断されたようです。震災後、当分の間は「食料もない、水もない、トイレや赤ちゃんのオムツもない」、陸の孤島となったようです。






ここに立って見える光景は、

生死を分けた山沿いの家々は残っていますが、賑やかであっただろうと思われる下の町並みは痕跡だけ、何もない光景でした。
ここに至るまでの瓦礫の撤去や、行方不明者の捜索では、自衛隊の皆様はもとより、関係者のみなさまのご苦労は大変なものであっただろうと思います。



そこで、この場所からは、ぼくが今写した光景と、被災前の光景と、被災直後の画像を失礼ながら使わせていただき、お伝えできればと思います。


震災前の町並みを写した写真のようです。ぼくが立っている場所は中央の大きな建物の下です。このカットは、山の上から撮影されたようです。




町並みは。

人口1万人ほどの町で、海と山に囲まれ海の幸が豊富な活気のある町だったようですが、




その町が、あの3.11の大地震の発生による大津波が押し寄せ、

町は壊滅的な被害を受けました。







震災から二ヵ月後に写された光景は、


とても悲惨な光景に変わっています。中央の茶色のビルはマリンピア女川、商業施設や観光施設の建物で、すごく賑わっていた建物のようです。この建物の屋上に逃げた人はぎりぎりで助かったようです。しかもこの建物が踏ん張ったお陰で、後方の建物はかろうじて残ってはいましたが、



今、僕が見る光景は、


津波による横倒しになった建物だけで、全ての建物は取り壊されたようです。緑の部分は、屋上の防水シートです。





この右方面も、

この光景から、建物全てが取り壊され、





今は、何もない光景になっています。寂しい限りです。ダンプだけが忙しく走り回っていました。




ぼくが立っている場所を見上げた写真では、

この状態から、




膨大な瓦礫の撤去で、大変なご苦労があったものと推察できます。




このまま、海岸沿いに歩いていくと、

横倒しになった3隗建ての建物が、無言のうちに語りかけてきます。





1階はガレージだったようで、当時の車が入ったままの状態でした。言葉になりません。





唯一、新しく建てられた建物も見られました。

漁業の再会にはいち早く必要な、自動製氷の施設がある市場も出来たようです。





だけど、

町の復興には、まだまだ時間が必要のようです。






ぼくには何も出来ませんが、住民の皆様が震災前の暮らしに戻られるようお祈りするだけです。





あの日、あの時、ここで何が起こったか、


記憶に少しでも残さなければと思い、画像を掲載させていただきました。

この後、無常の思いでバスに乗り、最後の視察先、南三陸志津川に向かいました。



津波による浸水が、海抜20数メートルに及ぶ被害で、死者595名、行方不明者286名(8/31現在)。

大地震で尊い命を失われた方々に、衷心よりご冥福をお祈りいたします

東北応援視察旅行【5】

 バスの心地よい揺れに睡魔が襲い、所々景色の記憶がないまま、バスは国道45号線を走っていたようです。
つかの間の休憩後、再開されたバスガイドさんのマイクから流れる優しい声で、ぼくは目が覚めました。石巻市内に入ったようです。

バスが停車し、ぼくの座席の窓の外を見ると、

石巻市立 門脇(かどのわき)小学校の校舎。ぼくは唖然とし、同時に心がずしりと重たくなっていくのが分かりました。一礼し、写真に収めさせていただきました。






ぼくの記憶にあるこの学校は、

昨年の紅白歌合戦でいちばん印象に残った、長淵剛が歌う「ひとつ」の場面。被災地に立ち熱唱する長淵。ライトで浮かび上がった校舎。今ここで呆然と見ている自分。心が痛いです。






震災当時は、

工場から漏れた油で学校は焼けてしまい、瓦礫で覆いつくされていたようです。子供達は無事だったのしょうか。







震災から一年半経過した、この海岸沿いの門脇(かどのわき)・南浜地区は、津波の被害の大きかった場所のひとつです。
そして、この石巻市は、地震に伴う大津波で壊滅的な被害を受け、死者3,471名、行方不明数は476名(8/31現在)と、宮城県でいちばん犠牲者が出たところです。




賑やかだったろう街並みは、

点々と、当時のまま残された建物はありますが、瓦礫は片付けられている状況です。地盤沈下したところでは水溜りが出来ています。言葉になりません。






中央よりの大きな建物は、石巻市立病院のはずです。当時、屋上からヘリコプターで患者さんが搬送される影像が頭に焼き付いています。








だれも住んでいない当時のままの家。(個人のお宅のため画像を加工しました)







当時はスーパーだったのでしょうか。








津波が押し寄せた時刻で、止まったままの時計。(石巻市立女子商業高校)






同乗した人たちは、一様に無言で見つめるだけでした。だれもが言葉になりません。

山と積まれた瓦礫、これが今の被災地の現状です。




信号待ちで停車の合間、唯一、ぼくが車窓から見つけた希望の色は、

真新しい「ブイ」が積まれた光景でした。三陸の海で活躍するのでしょうね。

そして重い心のまま、次の視察場所、女川(おながわ)に向かいました。

大地震で尊い命を失われた方々に 衷心よりご冥福をお祈りいたします

東北応援視察旅行【4】

 カモメとたわむれ、あっという間に下船となった松島遊覧芭蕉コース。

船着場では、これから乗船の方々で賑わっていました。外人さんも多く見かけ国際的な感じでした。
夏は「花火遊覧」、冬は「かき鍋クルーズ」と、松島湾の味覚を食べながらの遊覧コースもあるようです。




上陸して、みなさんが真っ先に向かうところは、

船から見えた「五大堂」です。慶長9年(1604年)、伊達政宗の造営にかかるものといわれ、五大明王の像が安置してある松島海岸の代表的な建物です。まさに「国宝」。木造の高度な建築力と、素晴らしい彫刻を見ることが出来ました。



ここのお参りが終わると、

商店街を通り、名実ともに奥州を代表する大禅寺「瑞巌寺」にお参りとなります。
このお店では津波の被害に遭われたのか、真新しいお店でした。仕事柄、「木」が
使ってあると興味津々、立ち止まって見てしまいます。とても良い感じのお店でした。




参道を進んでいると、

本堂を正面方向に半分くらい進んだこの撮影地点、「ここまで津波が到達しました」と書かれた看板が見られました。松島湾の点在する島々が津波を和らげ、結果的にご本尊を守ったのでしょうか。残念ながら、参道両脇の杉の木が海水を被り枯れてしまい、多くが伐採されていました。



参道をさらに進むと、

臨済宗妙心寺派、青龍山「瑞巌寺」。国宝のご本殿に拝観。と思いきや、残念ながら平成の大修理期間。平成28年3月までは、本堂・中門・御成門などは拝観できません。



仕方なく、ゼネコンさんが用意した工事用防護シートにプリントされた、

本堂の拝観となりました。機会があれば是非見ておきたかった建物だったので、とても残念でした。




その代わり、

残念賞として、特別公開されている場所がありました。





順路に従って進んでいくと、







立派な庫裏(くり)でした。ここは、禅宗寺院の台所。パンフによると、正面13.78メートル、奥行き23.64メートル。大屋根の上にさらに煙出しが載っている変わった設計ですが、大屋根のラインや各所に見られる彫刻など、正宗公の美意識が伺える国宝にふさわしい建物でした。

中は、撮影禁止のため画像はありませんが、ご本尊、伊達家代々のご位牌、この寺を開山した禅師の貴重な木彫り像など、普段見られないようなお宝が特別に拝観できました。


その後、

宝物館(青龍殿)で国宝・重文の貴重なお宝を拝観してから、本日のご昼食会場に向かいました。




お腹も満たされたところで、

松島を後に、これから東松島を経由して石巻市内の被災地視察に向かいます。

東北応援視察旅行【3】

 牛タンの疑問を引きずりながら、塩釜水産物中卸市場を出発して向かった先は、

車で5分、マリンゲート塩釜でした。ここは、松島遊覧の遊覧船の出発地、お土産物店やレストランを併設した施設です。3.11ではご存知の通り、大津波の被害を受けたところです。




この夏にリニューアルされたばっかりで、1階部分しか見ていませんがとても綺麗な状態に復旧されたようです。震災当時の影像では、たいへん悲惨な状況が映し出されていた記憶があります。復旧に向けた関係者のみなさまのご努力が伺えました。



さて、

今日は、ここを起点に船で松島へ渡り、東松島を経由して石巻市内、そこから女川(おながわ)町、また石巻に引き返してから今夜の宿がある、南三陸町に入る道のりとなります。


ひとまず、

遊覧船に乗船となります。




この船のコースは、

芭蕉コース。あの松尾芭蕉が、小船で塩釜から松島に渡るとき通った島々を巡ります。まさに、芭蕉も感動した贅沢なコースです。



さっそく、窓際の座席に座ると見えるものと言えば、


カモメのお出迎えです。近くで見ると、ちょっと目がきつく怖そうです。それにしても人馴れしています。




芭蕉コースも楽しみですが、ぼくのお楽しみは、

松島遊覧のもうひとつの名物。カモメと触れ合う餌付け?餌やり?でしょうか。今日は何とか決定的な瞬間を撮影したくて、わくわくしてしまいました。




さあ、いよいよ出発です。


カモメの集団が船の後尾で、餌のおねだりが始まります。




餌やりがスタートします。

餌はカッパえびせん。塩味が好きなのでしょか、みんな注目して狙ってきます。






投げられたカッパえびせんが宙に舞うと、さすが野生です。







そして、決定的瞬間の撮影成功、

ナイスキャッチとなりました。誰もが童心に戻って楽しみました。


そういえば、ぼく達だけではありません。

修学旅行の学生さんや、





お嬢さんたちもみんな、手にはかっぱえびせんを持っていました。みんな笑顔がよかったですね。こころからリフレッシュできました。


しかし、こんなことばかりしている場合じゃありません。

なんといっても、ここは日本三景「松島」。芭蕉が感動した島々の風景がメインで、カモメは偶然の産物です。これじゃあ案内放送の方に申し訳ありません。




鐘島(かねじま)





自然が創りあげた奇岩もたくさん見られました。その形によって、仁王島、兜島、夫婦島、変わったところでは材木島が印象に残りました。いずれにしても、この二百数十の島々が、昨年の大津波を和らげたことは、当時の報道で知りました。




ここに大津波が襲ったとは思えないくらい、穏やかな水面と風光明媚な名勝でした。




いよいよ、

松島のシンボル、五大堂が見えて来ましたので、ここで下船となります。