おもいっきり女子カメラ

 
 今日は、久し振りに終日雨が降りました。このところ、すばらしい秋の空だったので今日はお日様もひと休み、グレー一色の世界でした。

こんな日は、ネイチャーフォトのぼくには、さすがに出番はないだろうと思っている読者の皆さんも多いでしょうね。そうです、何もこんな日はわざわざ外に出て撮影しても題材が乏しいのも事実です。

しかし残念ながら、こんな日はインドアで楽しめることもあります。これしかないでしょう。

グレーの世界を吹き飛ばすような題材もありますよ。色鮮やかなダリアの切花でした。それにしても、普通に写しても単調になってしまいます。




マクロ域で写しても、ごく普通の花の接写くらいでしょうか。


そこで今回は、

写真系ブログランキングで人気がある、「ゆる〜いカメラ女子風」の撮影に挑戦してみました。彼女らは、身の回りのかわいい題材を見つけては、ゆるい系の撮影技法の画像を掲載し、コメントも可愛いです。



ちょっとやってみましょう。

うん・・・




角度を変えて、

うん・・・




花を変えて、

うん・・・





うん・・・

やっぱりぼくには、マネができません。。。おそるべしカメラ女子。。。感性がちがいます。。。
やっぱりぼくには、男の感性しか持ち合わせていないようです。

優しい色やねん

 「今が旬」、という言葉を聞くと、ぼくには食べ物しか浮かんでこないが、人にも「今が旬」があるようだ。それも、今が旬といえば「若くてピチピチしていた頃」、「何をするにも情熱に燃えていた頃」、「人生でいちばんの絶頂期」、などと思われがちだがそうでもないようだ。

そう気づかせて貰ったのは、会社でみんなに毎号回覧しているPHP情報誌11月号にあった。
すでに旬が終わったと思っているぼくには、この夕陽のように燃えるようなインパクトがあった。ぼくのような思いの方にご紹介します。

              「旬(しゅん)」

 若いころは徹夜しても平気だったのに、今では少し無理をすると、何日も疲れが残ってしまう。
 以前はすんなり記憶できたことも、今ではなかなか覚えられなくなり、覚えてもすぐ忘れてしまう。
 人は誰でも、年をとるにつれ、それまで難なくできていたことが徐々にできなくなっていく。しかし一方で、齢(よわい)を重ね、さまざまな経験を積んでいくなかで、分かるようになったり、見えるようになったりするのも増えていく。だから、今になってはじめてできることも、たくさん生まれてきているはずである。

 できる、できないと一喜一憂することはない。食べ物に旬があるように、人間の人生にも何かを行うに最適の時機があるのではないか。そうしたその時どきの自分にとって旬をとらえ、今だからこそできること、今しかできないことを逃さず、それに精一杯取り組んでいくことが大切なのであろう。
 そこから、それまでできないと思っていたことを可能にする新たな力が湧いてくるのにちがいない。

ここぞ!というタイミングは、なにも若いときだけではないようだ。生涯青春の気持ちがあれば、「今が旬」のタイミングをその歳なりにとらえ、味わい深いものに出来るように思えた。

ぼくの撮影においても、つい先日「旬」をとらえることができた。

とても優しい色だった。



旬を醸し出してくれたのは、

この雲の色のおかげ。



ものの数分で、

また違った優しい色を見せてくれた。この後は、刻々とグレーの空に変わっていく。



それは、

この雲の色のおかげ。雲が無かったらこの優しい色は見れなかったと思う。
秋も深まるこの頃は、今が旬の夕暮れが魅了してくれます。

祭囃子に誘われて

 今年も、祭囃子が聞こえる季節になった。

子供が小さい頃は、秋の祭を楽しみにしていたものだ。そんな子供も大人になり、ぼくは祭の日すらうっかり忘れていた。そんな中、祭の数日前に義母からのお誘いの電話があった。それによると義父は、祭の日はぼくと一緒に酒を飲むのを楽しみにしているとのことだった。ありがたいお誘いだった。そういう訳で、祭の当日はお邪魔することになり、お昼からご馳走になった。


しばし二人で酒を飲み交わした後、外に出てみたら、

ちょうど良いタイミング。番内や祭花もお宮に向かう時間だったようだ。毎年、若い人たちが祭を盛り上げている。



今年の番内役の彼も、

朝から家々を廻りながら、孟宗竹を振り回してはお神酒をよばれていたようだ。良く見ると、足元が既におぼつか無い状態だった。こちらも、昼間から飲んでいるので会話も弾むが、シャッターがブレてしまう。



そこで、先回りをして今年もスナップ撮影を試みた。 

お宮まで練り歩いて来た頃には、あの元気な勢いが失速してきた。




しばらくすると、
宮司さんが出迎えて、何やら儀式が始まった。このときは、再びしっかりしてきたようだ。お宮までもうすぐの距離だ。





鳥居の下に差し掛かると、当家(とうや)でしばらく過ごされた神様をお出迎え。
このとき、番内は男の子を抱え記念写真に収まっていた。しばしの休息なのか。



しばらくすると、

東と西の地区からそれぞれの祭花、各番内、獅子舞のみなさんも集合してきた。





宮司さんを先頭に、これからがクライマックスを向かえる。






飲酒撮影にしては、偶然にも厳粛な雰囲気の写真が撮れた。
鎮守の森に向かう宮司さんの衣装が色鮮やかだった。





獅子舞も舞を終えようとしていた頃、





番内も石段を登ってきたが、かなり足元も体もふらふらしていた。




やっと登り切り、拝殿の前では、

番内と、次に登ってきた祭花が入り乱れてしまった。宮司さんも「おいおい大丈夫か?」となった。




そして、

番内を先頭に祭花は、お宮の廻りを一周することになる。




一周すると、

練り歩いた祭り花はここでお役御免、参拝客の争奪戦となる。持ち帰られた花は縁起物として家々で飾られる。
何度見ても、これがハイライトシーンのようだ。




今回、ぼくが注目していた若い衆は、

「俺もう駄目だっ!」、もう限界のようだった。衣装の脇から見える下着が、この日の彼の頑張りを物語っていた。
何とも偲ばれるスナップとなった。




今年も若い衆、地域の人や長老も一体となった良い祭を見させてもらった。義父がいつまでも元気でぼくもお酒が飲める内は、これからも一緒に酒を飲み交わしたいと思う。

北の国から

 いつもの場所で・・・いつもの時間で・・・、とは行きませんが、

いつものフィールドでは見上げる空に、やや隊列が乱れた鳥の群れが飛来しました。左のほうの群れがチームワークが乱れています。






自分勝手な性格なのか、この方達はとても綺麗な飛来とは言えません。それに、上品さがやや欠けたところがあります。もう、5年以上前からのお付き合いなのでぼくには分かります。





そうこうしていると、

近くの方に着陸してきました。北の国から冬の使者、一番乗りのマガン達です。今年もやってきました。





ゆっくりと羽根を休めるどころか食欲旺盛な彼らは、さっそく田んぼの落穂を食べていました。いつもの事です。




意地悪なぼくは、

そーっと近づいたら、とんでもない大きな泣き声で、みんな一斉に飛び立ちました。来年、帰る頃には慣れてくれると思うのですが、まだ人馴れしていないようです。ぼくのフィールドでは、この方達のおかげで今年も賑やかな冬を迎えられそうです。と同時に、空からが降ってくる頭上注意の季節になりました。

蕎麦の花

 夕べのラジオの天気予報がぴったり当たり、今朝6時の気温は10℃を下回り9.6℃と、この秋一番の冷え込みになりました。お天気のお姉さんの予報を信じ、毛布を一枚余分に掛けて寝たのが正解でした。

そんな放射冷却で始まった今日は、休日のため撮影に出掛けました。

蕎麦の花が広がる光景です。刈り取りまじかの黄金色の田んぼの脇で、緑に無数の白い花が混じるこの光景、これはこれで綺麗なものです。





それにしても、単体の題材としては難しい花です。何が何だか分からなくなります。






やはり、この花は集団演技の花のようです。黄金に色づいた稲穂の集団演技を背景に入れてみました。






風景を飾る一部のお花畑として、ぼくは毎年この光景を撮影しています。そして、蕎麦好きのぼくは、これを見ると新蕎麦が食べたくなります。




夜のショールーム

 昨日、いや昨晩といったほうが良いかもしれませんが、

ご招待状をいただいていたので、トーヨーキッチン米子ショールームの特別内覧会に行ってきました。近くのメーカーさんのショールームは暗くなっていましたが、こちらは、ショールームのウィンドーガラスから暖かい光が漏れていました。




新商品がエントランスを入ると出迎えてくれました。このメーカーはカッコ良すぎです。
昔からぼくの感性を刺激する、唯一の国内メーカーです。




シンクの頭上に吊られた照明も、調理が楽しくなるようなデザインでした。





キッチンもさることながら照明がとても斬新で、デザイン性は素晴らしいものがありました。





ふと考えたこと、「わが家には似合わないだろうなあ」。それにしてもカッコ良すぎですね。




ぼくが始めてみたものは、

ガスコンロとIHヒータのコンビネーション。これなら、ガスの強火の調理が好きな人、火を使わない安全でクリーンな調理を好む方にも一石二鳥ですね。これには参りました。ぼくは料理をしないので、停電の時いいかもくらいの発想しかありません。





これが、このたびの超!新商品でした。INO・メタルスモークだったでしょうか。トップのステンレス天板はもちろん、扉の面材の質感といい素晴らしいのひと言。さらに、食器洗い機はとても静かなドイツ製の最高級品。IHもこれまたドイツ製の四つ口の最高級品。ぼくの35年間のキッチン取扱い人生の中でも一番の芸術品と言っても過言ではありません。プライスは見ないようにしました。

足元を見ても、キッチンがまるで宙に浮いたようにも見えます。





この日は夜の内覧会ともあって、冷えたシャンパンを飲みながらの見学となりました。それにしれも美味しいシャンパンでした。もちろんノンアルですが、オシャレなものを見て気分はほろ酔いでした。





この長い首はカランです。シンクが大きいので2ヶ所に付いています。
邪魔のようにも見えますが、説明を聞くとこれまた優れものでした。
洗剤などが付いて手が使えないときに、カランの曲がったところを汚れていない
手首を使って左か右にひねると、水、お湯、止水とカランを汚さず使えるそうです。
デザイン性と実用性を兼ねた開発商品のようです。

この夜の「
トーヨーキッチン米子ショールーム」、ぼくの心をくすぐるオシャレなショールームに変身していました。

東北応援視察旅行【9】

 毛越寺からバスに乗り、乗車から5分ほどで下車となりました。自転車で走るとちょうど良い距離でしょうか。

今回の東北旅行の終着地、中尊寺に到着しました。ずっとこの日を楽しみにしていました。普通ならこの表参道を登って本堂を目指すようですが、バスは特別に裏参道を登り、上の駐車場の方まで行ってから降ろしてもらいました。

ここは、金色堂、讃衡蔵にもっとも近い場所でした。こちらの専属のガイドさんに従い、まずは「讃衡蔵」を拝観しました。この蔵では「甦る平安の輝き」と題した企画展が開催中のようで、中尊寺を代表する国宝の数々を見ることが出来ました。



そして、今回もっとも楽しみにしていたところ、

これまた「国宝・金色堂」でした。正式には金色堂を外気に触れないように守る、覆い堂とも言うのかも知れません。
日曜日ともあって、中に入るのには大変な行列でした。もちろん撮影禁止です。
さすが金色堂です。お堂全体を金箔で覆い荘厳な彫金は素晴らしかったです。まさに、平安仏教美術の最高峰でしょうか。

説明によると、天治元年(1124年)の造営で、中尊寺では唯一の創建当時の建物のようです。
また、中央の須弥壇(しゅみだん)の内に藤原家、初代清衡(きよひら)、向かって左の壇に二代基衡(もとひら)、
右の壇に三代秀衡(ひでひら)公のご遺体がミイラとして納めれれていることに驚きでした。
(四代泰衡(やすひら)は首級が三代と一緒に納められているそうです)



金色堂のそばには、

こちらは、重文・経蔵(きょうぞう)。パンフによると、ここは中尊寺のお経を納めていたお堂とありました。
修復はされていますが、平安時代の古材が随所に用いられているようです。
「いろはもみじ」が真紅に色づく頃には、絶好の撮影ポイントになるようです。


意外なことに、ぼくは忘れていました。

この碑を見て、芭蕉先生のことを忘れていました。ぼくは学生の頃、この方に興味を持ったものです。





芭蕉も見た金色堂。当時は少し離れたところにあったようです。






そういえばあの頃、

芭蕉が巡ったそれぞれの場所を、地図で探しながら確認した記憶があります。




そうこうすると、

横顔が見えてきました。





この歳になって、

初めて憧れの「松尾芭蕉」にお会いできました。感動モノです。




そこで、団体行動の最中、はぐれない程度に間を空けて、

平成の「奥の細道」を探すことにしました。






芭蕉も登ったのでしょうか。






説明をお読み下さい。












どこもかも、撮影ポイント満載です。これから紅葉が進むと綺麗でしょうね。



しかし、

今日は日曜日、人影がない場所を探すのは一苦労でした。



そうこうしていたら、祭囃子が聞こえて来ました。

ご本堂の前庭で、何やら人だかりが出来ていました。





何の踊りか分かりません。男性だけの素朴な踊りです。




秋の収穫のこの時季、五穀豊穣のお礼の奉納なのかなあと思いました。あくまで、ぼくの想像ですが。



ここで、

天台宗東北大本山、中尊寺本堂の参拝となりました。パンフによると難しいことが書いてありますが、当時の建物は14世紀に消失してしまい、これはもちろん再建された立派なお堂でした。


本堂へお参りしてから表参道を降りようかとする辺りに、ぼくの仕事を思い出させるモノ。

大杉の三つ子ちゃんでした。太さといい伸び具合といい、かなりの年代ものでしょうか。




こちらは、

四つ子ちゃんに見えますが、双子ちゃん×2だと思います。
四つ子ちゃんなら、とても貴重なものです。



しばし見上げてから、

表参道「月見坂」を下りていくと、弁慶堂がある辺りに名所があります。





東物見台と呼ばれる撮影スポット、見晴展望台があります。




ぼくは、弁慶堂のチョッと高いところで望遠で見てみました。

奥州藤原氏の拠点。当時、京の都に次ぐ規模と人口だったこの平泉。栄華を偲んでみました。大きい川が「北上川」。見えるこのあたりは、衣川の戦い、高館(たかだち)辺りでしょうか?。
藤原氏を最後の頼みとして訪ね、義経は秀衡(ひでひら)にかくまわれました。心から穏やかな時間を過ごした場所でしょう。
そして、頼朝の脅迫に屈した藤原泰衡の裏切りにより、妻の静御前と共に自害した義経と、最後まで義経を守った、あの弁慶最期の地。

芭蕉の、「夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡」の句が、何となく聴こえてきそうでした。


そんな昔のロマンに浸りながら、足元が悪く滑りそうな月見坂を降りると、

中尊寺の門前に出ました。ここ平泉は一度は訪れたかった場所で、すごくよかったです。また、みちのく巡礼「四寺廻廊」の旅もあるようで、平泉のここ中尊寺、毛越寺、松島の瑞巌寺、山形の山寺立石寺の四寺だそうです。
今回、三寺は巡りました。機会があれば、立石寺にお参りしたいものです。当然、松尾芭蕉が巡拝した寺々です。


そんな次の目標を抱きながら、

これで、今回の東北応援視察旅行はすべて終わり、一路東北新幹線、JR一関駅にバスは向かいました。
車窓から見える田園風景を見ながら、ぼくは尊敬する「鎌田 實」先生が震災以降おっしゃっている言葉。
「99%は自分のため、家族のため、身の回りのために生きていくのはいいけれど、1%は東北の被災された方、
原発の事故で苦しんでいる方のことを忘れないで・・・」を思い出しました。ぼく達はこの旅で何が出来たのだろうか。

「東北応援視察旅行記」は、全9回となりましたが、偶然にも普段以上の沢山のアクセスをいただきありがとうございました。
特に、被災地の視察報告においては、不適切な表現や画像もあったと思います。不快に思われたみなさまにお詫びいたします。
明日からは、平常どおり何も意味が無い、いつもの社長ダイアリーに戻らせていただきます。

改めて、大震災で尊い命を失われた方々に心よりお悔やみ申し上げ、一日も早い被災地の復興をお祈りいたします

東北応援視察旅行【8】

 南三陸の宿で疲れを取った翌朝は、旅の最終日、一路岩手県に向かいます。

再び防災対策庁舎前を通ると、朝から慰霊に訪れる方がありました。ぼくも車窓から手を合わせました。
ここからバスは国道398号、本吉街道を北上し、岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」を目指します。


何処をどう走ったかは定かではありませんが、宿を出発してから走ること二時間あまりだったでしょうか、バスは国道4号線(奥州街道)、一関(いちのせき)に入りました。ぼくは始めての岩手県入りとなりました。


ひとまず到着したのは、

平泉町、毛越寺(もうつうじ)でした。こちらも昨年、世界文化遺産に登録されたようです。しかし、ぼくにはこの読み方が普通に読むと「もうえつじ」、「けごしじ」、「もうおつじ」だと思うのですが、なぜ、「越」が「つう」か不思議でした。



まあそれはそれとして、テレビなどでは「もうつうじ」の名前を聞いたことがあります。

さっそく、本堂にお参りしました。ご本尊は「薬師如来(平安時代作)」とあります。渋い朱色に塗られた、使ってある木材も立派でした。




本堂の横には、

当時、この場所は南大門のという立派な門が立っていたようで、ここがこの寺の正門だったようです。




このまえには、
廻りの山々を映し出す広大な池が広がっています。












とてもファインダーには収まりません。この池は、浄土を表すとても意味深い、古い作庭手法のようですが、ぼくにはもちろん分かりません。

そもそも、世界遺産に登録されたのは、この池、大泉ヶ池(おおいずみがいけ)を中心に取り囲む、平安時代に建造された金堂、講堂、堂舎の数々の遺構跡と、浄土を表す浄土庭園が評価されたようです。
そいいえば、この光景はテレビで見たことがあります。
当時の復元模型でもあれば分かりますが、勉強不足のぼくには、ただ広い池を一周しただけのウォーキングコースでした。



しかし、この方々には「雅」な平安時代が感じられるのでしょうか、

芸術の秋のようですね。良い時間を過ごしていらっしゃいます。




ぼくには絵心がありませんので、写心にて記憶に残したいと、





目にも優しい緑に囲まれ、てくてく撮影しながら歩きました。



その中でも、ぼくが「雅」を感じたのは、


萩の花でした。平安時代からここで咲き続けているのでしょうか。



それにしても、

この方々が気になります。



そこで、そっと近づいて、

どんな状況か見て見ることにしました。






こんな状況です。ぼくは、「お上手ですね〜」ってご挨拶しました。
ぼくに浮かんできた歌は、「あなたと〜わたし〜たのしくお絵かきしましょ〜大きな杉の木の下で〜」
でした。

何故か、世界遺産「毛越寺」の思い出は、お絵描きされる方々の光景でした。
このあと、この旅の最終地、中尊寺に向かいます。

東北応援視察旅行【7】

 女川を出発して、再び石巻市内を通り抜けおよそ一時間くらい走ったのでしょうか。
国道45号線、東浜街道にバスは入りました。山を幾たび越えて見えてきた光景は、

住宅の基礎部分だけが残った、閑散とした光景が続きました。山の木が、海水の塩分で立ち枯れを起こしているようです。





中腹には、線路が途中で遮断されています。気仙沼線の小さな駅舎があったと想像されます。しかし、海は見えません。こんな奥のほうまで津波が押し寄せたのでしょうか。信じられませんでした。






しばらく走ると、

平坦な場所に出ました。ここが、南三陸町志津川でした。







まもなく、道路わきにバスは停まり、降り立った光景は、

言葉にならない光景でした。ぼくは一礼し、写真に収めさせていただきました。


























鉄骨むき出しの建物は、今も震災の悲惨さを象徴する「防災対策庁舎」。役場の職員の方々が必死で住民の方々を最後まで守ろうとした場所です。




中でも、当時の報道で日本中の国民が泣いた、

当時、防災放送担当だった職員の「遠藤未希」さんが最後の最後まで、3階から避難を呼びかけた防災放送。
そのほかにも、屋上には住民を交え残された職員の方々30名ほど避難されたようですが、屋上も2メートルを越す津波が飲み込み、津波が引いたあとは10名ほどだったそうです。胸が締め付けられそうです。





この日も、多くの方が献花に訪れ、黙祷を捧げる姿がありました。
心が折れそうです。
ぼくのような、初めてこの地を踏むものにとって語る資格はありませんので、
遠藤さんの記事は、コチラ
でご確認ください





川の対岸の様子です。






高台は被害を免れたようです。






河口の方向です。






ガソリンスタンドも小さなプレハブで、頑張って営業されていました。頭が下がります。






写真を撮り終えて、やってはいけない行為に気が付きました。ぼくが立ち入ったのは、他人様の敷地内です。ここには、住人の方々の幸せな営みがあった場所です。ぼくのような、よそ者がやってはいけない行為をしてしまいました。
ちなみにこの場所は、玄関付近の床にAUショップらしきシール跡がありました。 申し訳ありません





よみがえれ 故郷  ふんばれ 南三陸! 復興を祈るばかりです。





震災以前の光景のようです。

気仙沼線の列車が走る、とてもきれいな港町だったようです。そこには、17,000人以上の方が住まわれ、幸せな営みがあっと思います。



3.11 あの日、あのとき ここで何が起こったのか、

記憶に残さなければと思い、画像を掲載させていただきました。


南三陸町志津川、死者611名、行方不明者237名(8/31現在)


大地震で尊い命を失われた方々に、衷心よりご冥福をお祈りいたします

東北応援視察旅行【6】

 石巻での視察を終え、重たい心で山間を進むこと30分。次の視察先、女川町にバスは入りました。
停車したところは、道路から16〜7メートルほど上った近代的な建物の駐車場でした。

ここは、女川地域医療センター、町立女川病院です。こちらも、1階の天井付近まで津波が襲ったと知り、ぼくは唖然としました。





それもそのはず、

下から見上げると、こんなに高い所に立っているのにと驚きです。
この女川町は大津波により壊滅的な被害を受け、陸路が遮断されたようです。震災後、当分の間は「食料もない、水もない、トイレや赤ちゃんのオムツもない」、陸の孤島となったようです。






ここに立って見える光景は、

生死を分けた山沿いの家々は残っていますが、賑やかであっただろうと思われる下の町並みは痕跡だけ、何もない光景でした。
ここに至るまでの瓦礫の撤去や、行方不明者の捜索では、自衛隊の皆様はもとより、関係者のみなさまのご苦労は大変なものであっただろうと思います。



そこで、この場所からは、ぼくが今写した光景と、被災前の光景と、被災直後の画像を失礼ながら使わせていただき、お伝えできればと思います。


震災前の町並みを写した写真のようです。ぼくが立っている場所は中央の大きな建物の下です。このカットは、山の上から撮影されたようです。




町並みは。

人口1万人ほどの町で、海と山に囲まれ海の幸が豊富な活気のある町だったようですが、




その町が、あの3.11の大地震の発生による大津波が押し寄せ、

町は壊滅的な被害を受けました。







震災から二ヵ月後に写された光景は、


とても悲惨な光景に変わっています。中央の茶色のビルはマリンピア女川、商業施設や観光施設の建物で、すごく賑わっていた建物のようです。この建物の屋上に逃げた人はぎりぎりで助かったようです。しかもこの建物が踏ん張ったお陰で、後方の建物はかろうじて残ってはいましたが、



今、僕が見る光景は、


津波による横倒しになった建物だけで、全ての建物は取り壊されたようです。緑の部分は、屋上の防水シートです。





この右方面も、

この光景から、建物全てが取り壊され、





今は、何もない光景になっています。寂しい限りです。ダンプだけが忙しく走り回っていました。




ぼくが立っている場所を見上げた写真では、

この状態から、




膨大な瓦礫の撤去で、大変なご苦労があったものと推察できます。




このまま、海岸沿いに歩いていくと、

横倒しになった3隗建ての建物が、無言のうちに語りかけてきます。





1階はガレージだったようで、当時の車が入ったままの状態でした。言葉になりません。





唯一、新しく建てられた建物も見られました。

漁業の再会にはいち早く必要な、自動製氷の施設がある市場も出来たようです。





だけど、

町の復興には、まだまだ時間が必要のようです。






ぼくには何も出来ませんが、住民の皆様が震災前の暮らしに戻られるようお祈りするだけです。





あの日、あの時、ここで何が起こったか、


記憶に少しでも残さなければと思い、画像を掲載させていただきました。

この後、無常の思いでバスに乗り、最後の視察先、南三陸志津川に向かいました。



津波による浸水が、海抜20数メートルに及ぶ被害で、死者595名、行方不明者286名(8/31現在)。

大地震で尊い命を失われた方々に、衷心よりご冥福をお祈りいたします